2022年3月3日(木)

2022年3月3日(木)


『わたしの羊を飼いなさい。』ヨハネの福音書21章17節


この時点で、ペテロの愛はまだ熟してはいない。
神の愛とは人が作り出せるものではなく、神のご性質である。

私たちが聖霊を受けると、聖霊は私たちを神と結び合わせてくださる。
それは神の愛が私たちの中に現されるためである。

しかし、内住の聖霊の目標は、単に私たちのたましいを神と結び合わせるだけでなく、イエスが御父と一つであられたように、私たちを御父と一つとすることにある。

イエス・キリストが御父と一つであられた一体性とはどのようなものであったか。
それは、御子が私たちのためにすべてを使い尽くすようにと、御父が地上に御子をお遣わしになったほどの一体性であった。

その主が私たちに仰せになっている。
「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と。

ペテロは今や、主の鋭い質問によってもたらされた天啓により、自分がたしかにイエスを愛していることに気がついた。
すると、主から次の点が示された。

「自分を使い尽くせ。
あなたがどれほどわたしを愛しているかは話さずともよい。
あなたが受けたばかりの素晴らしい天啓についても語るな。
ただ、わたしの羊を養え」と。

ところが、イエスの羊の中には大変な変わり種も混じっている。
毛は伸び放題で、よごれたままの羊がいる。
また引っ込み思案の羊、その逆に厚かましい羊もいる。
どこかに迷い出てしまった羊もいる始末である。

しかしそうであったとしても、神の愛は倦み疲れることがない。
私の愛も、もし私の中心におられる神の御霊から流れ出るものであれば、倦み疲れることはありえない。

神の愛にとって、私の生来の性質は全く関係ないのである。

もし私が主を愛しているなら、自然の感情を頼りとする必要はない。
私がしなければならないのは、主の羊を養うことである。
この任務には休息も放免もない。

神の愛を、生来の人間的な感情や同情、また理解にすりかえてはならない。
そんなことをすれば、神の愛が冒漬されるだけである。

God Bless You!!


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