2022年3月28日(月)
『それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。「……またそこにおいでになるのですか。」』ヨハネの福音書11章7節から8節
イエス・キリストの言われることが私に理解できないことがあるかもしれない。
しかし、だからといって、イエスのことばは間違っている、というのは危険な考えである。
私が神のみことばの一つにでも従えば、イエスに不名誉をもたらす、という考えが正しいことは決してない。
主に不名誉をもたらすのは、主への不従順以外にはないのである。
主が私を明確に導いておられることよりも、こうするほうが主の栄誉になる、という自分の考えが正しいということは決してない。
たとえ、それが主の恥にならないように、という本物の熱意から出ていたとしても、である。
神からの導きが私に分かるのは、静かな促しが続くからである。
しかし、事柄の得失を考え、疑いや迷いが生じると、神のものではない要素が入り込み、神からの提示が私にとって正しいものではない、という結論に至ってしまう。
私たちの多くは、イエス・キリストをどうとらえるか、という自分の考えに忠実である。
しかし、私たちのうち、イエスご自身に忠実である人が何人いるだろうか。
イエスに忠実である、というのは、たとえ私には何も見えなくても、一歩を踏み出すということである。
自分の考えに忠実である、というのは、まず自分の知性によって物事を解決するということである。
しかし、信仰とは知的に理解することではない。
信仰とは、行く先が見えなくても、イエス・キリストという御方に自分をゆだねることなのである。
あなたは今、イエスを信頼して一歩を踏み出すべきか、あるいは問題を自分でどう解決するかが分かるまで待つべきか迷っているだろうか。
ただ喜んで、主に従えばよい。
主から何かを言われて迷いが起きるのは、主の栄誉ではないことを栄誉である、とあなたが錯覚しているためである。
あなたは、イエスご自身に忠実なのか、それとも、イエスに対する自分の考えに忠実なのか。
あなたはイエスが言っておられることに忠実なのか、それとも、イエスから来たのではない思い込みと妥協しようとしているのか。
「彼が言うことは、何でも実行しなさい」
God Bless You!!
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