2022年3月26日(土)

2022年3月26日(土)


『心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。』マタイの福音書5章8節


きよい、というのは純真無垢ということではない。
それ以上のものである。
きよさとは神との霊的な調和が保たれている結果である。

私たちはきよさにおいて成長しなければならない。
神との生活は正常で、内なるきよさは汚れのないままかもしれない。
それでもなお、外から見ると生活にしみや汚れのある場合がある。

神はこの可能性からあえて私たちを保護されない。
そのおかげで、私たちは自分をきよく保ち、霊的な視野を曇らせないようにする必要が自覚できるのである。

もし神との霊的生活が外から見て、ごくわずかでも損なわれていれば、すべてをさしおいても、それを正常に戻さなければならない。
霊的な視力は私たちの人格と密接に関わっているからである。

「心のきよい者」だけが「神を見る」のである。

神は一方的な恵みによって私たちをきよくしてくださる。
しかし、それでも私たちが注意を怠ってはいけないことがある。
生身のからだを持つ私たちが他の人々と接し、その考えに触れること自体が、汚れをもたらしやすいのである。

私たちの「内なる聖所」が神と正常な関係になければならないことはもちろん、「外の庭」も、神の恵みによって与えられたきよさにふさわしい状態になければならない。
「外の庭」が汚れると、私たちの霊的視力や理解力はたちどころに曇ってしまう。

主イエス・キリストと個人的な親密さを保ちたいなら、行動にも、思い浮かべることにも忌むべきものがある。
他の人にとっては問題がなくても、私たちにとっては触れるべきではない、厭わしいものがあるのである。

他の人との関係において、自分自身のきよさを失わないですむ実際的な方法とは、自分に向かってこう言うことである。
「あの人もこの人も、キリスト・イエスにあっては完全である。
あの友もあの身内も、キリスト・イエスにあっでは完全である」と。

God Bless You!!


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