2022年3月20日(日)
『わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。』創世記18章17節
《神との友情がもたらす喜び》
創世記18章は、単に、祈るときに時折感じる主の御臨在とは別の、神との真の友情がもたらす喜びを浮き彫りにしている。
神との交わりが途切れることがないため、もはや、みこころを示してください、と改めて求める必要もない。
こうなれば、信仰生活における訓練が最終段階に近づいている、ということである。
神と正しい関係にあれば、解放と自由、そして喜びの生活が待っている。
つまり、あなた自身が神のみこころとなっているのである。
良識に基づくあなたの決断はすべて、神がとどめないかぎり、事実上あなたに対する神のみこころである。
神との完全で喜ばしい友情に照らして、あなたは自由に判断を下すことができる。
自分の判断が間違っていたら神がとどめてくださると分かっているからである。
しかし、神がとどめられたなら、しようとしていることを、ただちにやめなければならない。
《神との友情における困難》
アブラハムはせっかくの祈りをなぜ途中でやめてしまったのか。
自分の願いをかなえていただけるまで大胆に食い下がるほど、神と必ずしも親密ではなかったということである。
祈りを途中でやめてしまい、「よく分からなくなった。
これは神のみこころではないのかもしれない」と言うようなら、進むべき次の段階がまだ残っている。
私たちはまだイエスほど、またイエスが私たちに望んでおられるほど、神を親しく知ってはいない。
「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」とイエスは祈っておられるからである。
あなたが最近祈ったことを考えてみるとよい。
あなたが一生懸命になったのは、自分の願いのためか、それとも神のためか。
あなたがした決意は、御霊の賜物を得るためか、それとも神に近づくためか。
「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです」。
求める理由とは、神をもっとよく知ることにある。
「主を自らの喜びとせよ。
そうすれば、主はあなたの心の願いをかなえてくださる」。
私たちが祈り続けるべき理由とは、神ご自身を完全に理解するためなのである。
God Bless You!!
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