2022年3月19日(土)
『信仰によって、アブラハムは……どこに行くのかを知らずに出て行きました。』ヘブルへの手紙11章8節
旧約聖書においては、神との個人的な関係が、離別という形で現されていた。
これがアブラハムの生涯においては、祖国、また親族からの離別として象徴的に描かれている。
しかし今日、私たちが離別と言うときには、自分に近しい人々のものの考え方や価値基準から離れることをいう。
もちろん、それはその人々が神との個人的な関係を持っていない場合のことである。
イエス・キリストが強調しておられるのはまさにこの点である。
信仰によって生きるということは、自分がどこへ導かれようとしているか全く分からなくても、導いてくださる方のことは愛しているし、よく知っている、ということである。
それがまさに信仰による生活というもので、知性や理屈には基づかず、「行け」と呼びかける方を知っているからこそできる生き方なのである。
信仰の根は人格を持った神を知ることにあるが、最も恐るべき罠の一つ は、信仰さえあれば神は必ずこの世での成功に導いてくださる、という考え方である。
信仰生活の最終段階とは、人格の完成である。
その過程においては様々な変貌の段階を通る。
たとえば祈るとき、私たちは神のご臨在に包まれているように感じるが、自分が変えられたのは束の間で、普段の生活に戻ると、そのときの栄光は影も形もない。
信仰生活とは、鷲の翼に乗って空高く舞い上がる経験のことではなく、歩いても疲れない生活のことなのである。
それは聖化されるということですらない。
むしろ聖化のはるか先にあることであり、試練を通り、それに耐えた信仰のことである。
アブラハムは、聖化された人の代表ではない。
むしろ信仰生活の代表であり、その信仰は、試練を経て、まことの神の上に築かれた信仰であった。
確かに「アプラハムは神を信じた」のである。
God Bless You!!
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