2022年3月17日(木)
『それゆえ私たちは、主に喜んでいただけるようにと苦心している。』コリント人への手紙第二5章9節
「それゆえ私たちは苦心している」とあるとおり、主に喜ばれる、という私たちの第一目標を前面に保持するためには、並々ならぬ努力が必要である。
それは、来る年も来る年も、常にその高い理想に自分を合わせていく、ということである。
たましいを救いに導くことや、教会を設立すること、あるいは信仰覚醒を起こす、という目標ではない。
「主に喜ばれること」だけを大望とするのである。
失敗に至るのは、霊的な経験不足が原因ではなく、理想を保つ努力不足が原因である。
少なくとも週に一回は、神の御前で自分を点検し、自分の生活が主の望まれる基準に達しているかどうかを確かめる必要がある。
パウロは聴衆の称賛を受けることに全く関心のない演奏家のようであった。
パウロにとっては、指揮者なるキリストが、「それでよい」という表情を浮かべてくださるだけで十分だったのである。
どのような目標も、神に認められるという中心的な目標からほんのわずかでも逸れれば、私たちは無用の存在になりかねない。
その目標の行き着く先を見分けよ。
そうすれば、なぜ「イエスから、目を離さないでいる」ことがそれほど必要なのか納得がいくことであろう。
パウロは、自分自身が失格者にならないように、「自分のからだを打ちたたいて服従させます」と言っている。
私は、ありとあらゆることをこの第一目標に関連づけ、その目標をたゆまず保持できるようにしなければならない。
神にとって、公の場での私の価値は、だれも見ていないときの私の価値と同じである。
私の大望とは、主に喜んでいただくことであろうか。
それとも、どれほど立派に見えようとも、それ以下のことだろうか。
God Bless You!!
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