2022年3月12日(土)

2022年3月12日(土)


『ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」』マルコの福音書10章28節


ペテロが述べたことに対する主のお答えは、要するに、「すべてを捨てる」のは主ご自身のためであり、弟子たちが何か利益を得るためではない、ということであった。

「すべてを捨てる」と言いながら、利己心が潜む場合には警戒しなければならない。
「罪から解放されたいので、そして聖くされたいので、私は自分を神に献げます」といったたぐいのものである。

そのすべては神との関係が正しくされた結果であるが、その精神はキリスト信仰の本質にそぐわない。
自分を放棄する、というのは何かを得るためにすることではない。

私たちは御利益を求め、神のためにではなく、神から何かをいただくために神に近づこうとする。
それはこう言うのと同じである。

「主よ、残念ですが、あなたに用はありません。
自分の好きなようにしたいのです。
しかし、私を清めて聖霊で満たしてください。
展示場に並べられるときがきたら、『神さまのおかげで私はここまでになれた』と自慢したいのです」と。

私たちが何かを神に献げる目的が、もっと大きな見返りを求めてのことであれば、その「放棄」には聖霊の働く余地が全くない。
それは、営利目的の哀れな利己主義である。

天国への切符を手に入れること、罪から解放されること、そして神にとって有用な存在にされることのどれも、真の明け渡しをする際に考慮するべきことではない。
真の全面的明け渡しとは、何をさしおいてもイエス・キリストを優先するということなのである。

家族の人間関係に障害ができた場合、イエス・キリストはどこにおられるだろうか。
私たちの大半は、次のような言い訳をしてイエスを見捨ててしまうことであろう。

「はい、主よ、召しの声は聞こえましたが、母も妻も反対していますし、自分の利益にも反しています。
したがって、これ以上お供をすることはできません」と。

するとイエスはこう言われる。
「あなたはわたしの弟子にはなれない」と。

本当の明け渡しは、人間的な情を乗り越えていくものである。
そうすれば、神はご自身をなげうってまでも、あなたが自己放棄したことに心を痛めた人々を抱き寄せてくださるのである。

神に対する全面的な明け渡しに至らないことがないように警戒せよ。
私たちのほとんどは、明け渡しのイメージを持っているだけで、本当はまだ一度も経験したことがないのである。

God Bless You!!


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