2022年3月11日(金)

2022年3月11日(金)


『私は天からの幻に背かず、……。」使徒の働き26章19節


もし、私たちが神からの幻を見失ってしまったら、その責任はひとえに私たちにある。
幻を見失ったのは、霊的な力が漏れていたためである。

神への信仰があっても、それを実際の場面に適用しなければ、せっかく与えられたビジョンも実現の機会を失う。

「天からの幻」に従順であろうとすれば、神の栄光のために自分の最善を尽くす以外に方法はない。
それには、絶えず神からの幻を思い出す決意をすることである。

それができているかどうかを見る厳正なテストは、個人の祈りの時間や公の集会の時を含め、一分につき60秒、一時間につき60分なされなければならない。

「もし遅くなっても、それを待て。
必ず来る。遅れることはない」。

私たちがどんなに努力しても幻に到達することはできない。
幻がおのずと実現する時まで、幻を励みに生きるべきである。

私たちは実際的なことに目を奪われ、幻を忘れがちである。
最初に幻を見たはずなのに、その実現を待たなかった。
実際的な働きには急いで取りかかったが、幻が実現した時に、それを見届けもしなかった。

なかなか実現しない幻を待てるかどうかは、神に対する私たちの忠実さを測るテストである。
実際的な働きに熱中し、せっかくの幻の実現を見逃してしまうなら、私たちのたましいは危険にさらされる。

やがて神からの嵐が吹くのを待て。
神が聖徒たちを植える際に用いるのはつむじ風である。

あなたという鞘に種はしっかり入っているか。
それは、あなたが自分の見た幻に従って、実際に生活しているかどうかにかかっている。

あなたを送り出すのは神の嵐である。
その時が来るまで、勝手に飛び出してはならない。

自分で植えられる場所を選ぶなら、実は実らず、あなたという鞘はもともと空であったことになる。
しかし、もし神に植えていただくなら、あなたは多くの実を結ぶに至る。
私たちが、神の幻に従って実際に歩むことは、これほどにも重要なことなのである。

God Bless You!!


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