2022年3月10日(木)

2022年3月10日(木)


『みことばを宣べ伝えなさい。』テモテへの手紙第二4章2節


私たちが救われたのは単に神を伝える「経路」となるためではなく、神の「息子」、「娘」になるためである。
私たちは霊的な仲介者ではなく、霊的な使者にしていただいたのである。

したがって、伝えるべき使信が私たちの一部となっていなければならない。
神の御子は、神ご自身の使信そのものであった。

「わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです」。
主の弟子として、私たちの生活は、自分が伝える使信の聖なる体現でなければならない。

救われていない人でも、奉仕ならいくらでもするであろう。
しかし、罪を認めて砕かれ、聖霊によるバプテスマを受け、神のみこころに沿うように変えられた心でなければ、神の使信を、身をもって現すことはできない。

証しをすることと、福音を説くことの間には違いがある。
説教者とは、神の召命に気づき、自分の全精力を注いで神の真理を宣言する決意をした人のことである。

神は私たちを自分自身の考えから引き出し、「(鍛治のように)打ち叩いて形造り、役立つものとされる。」
それは五旬節の後、聖霊が弟子たちの人生に臨んでくださったのと同じである。

五旬節の目的は、弟子たちに何か新しいことを教えることではなく、自分が語る福音を、身をもって伝えられるようにすることにあった。

「あなたがたは………わたしの証人となります」というとおりにするためであった。

あなたが語るときには、神が自由自在にあなたに働くのを受け入れよ。
神の使信によって人々のたましいが解放される前に、まずあなたが神による解放を経験していなければならないからだ。

語るべき材料を念入りに集め、語るときが来たら、そこに点火すればよい。

God Bless You!!


a:39 t:1 y:0