2022年2月7日(月)

2022年2月7日(月)


『私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが……。』ルカの福音書24章21節


弟子たちが述べた事実はどれもこれもそのとおりであった。
しかし、それらの事実から引き出した結論が間違っていた。

ほんのわずかでも霊的な落胆を伴うものは常に間違っている。
もし私が意気消沈し、重荷にあえいでいるなら、その責任は神や他の人にではなく、私にある。

落胆の源は二つある。
自分の渇望を満たしたため、あるいはまだ満たしていないため、のどちらかである。
いずれの場合も、その結果は落胆である。

渇望とは、「今、すぐに自分のものにしたい」という意味である。
返答を下さる神ご自身を求めるのではなく、神からの返答を要求しないではいられない思いにさせるのが霊的な渇望である。

神が何をしてくださることを私は望み、また信じてきたのだろうか。
今日がすでに「三日目」となるのに、私が期待していることを神はまだ何もしてくださっていない。
それゆえに、落胆し、神を責めるのも当然ではないか、と私は考えてしまう。

神は祈りに対して答えを下さるべきだ、と主張するときは例外なく私たちが道を踏み外しているときである。
祈る目的は、答えを得ることにではなく、神とつながることにあるからである。

からだはどこも悪くないのに落胆している、ということはありえない。
落胆とは病気であることのしるしである。

これは霊的にも当てはまる。
霊的な落胆は正常なことではない。
しかも、その責任は常に私たちの側にある。

私たちは天からの幻を求め、神の力を見ようと、大地を揺るがす出来事を待ち望む。
それこそは、私たちが落胆している何よりの証拠である。

ところが、毎日の出来事の中に、また周囲の人々の中に、神が常に働きかけておられることに私たちは全く気づかないでいる。
私たちが従いさえすれば、そして最も身近な義務を果たすなら、私たちに神が見えてくるのである。

神からの最大級の啓示が私たちに臨むのは、平凡な日常の中にこそ、イエス・キリストの神としての素晴らしさが現れていると理解する時なのである。

God Bless You!!


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