2022年2月5日(土)
『たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。』ピリピ人への手紙2章17節
あなたは、他の信仰者の働きのために自分を犠牲にする覚悟があるだろうか。
他の人の奉仕と信仰のために、自分のいのちを犠牲として注ぎ出すほどに……。
それともあなたは、「今はまだ、そんな気持ちにはなれない。
私がどのように神に仕えたらよいかまで、神に指図されたくはない。
自分を犠牲にするとしたら、その舞台は私自身に決めさせてほしい。
そして、その様子を、物の分かる人たちに見てもらい、『よくやった』とほめてほしい」と言うのだろうか。
英雄的な威厳をもって、ひとり孤独に歩むということと、人々に踏みつけられる玄関マットになって、神に仕えるということとは訳が違う。
「私は、さげすまれた場合の対処も心得ている」とあなたが言えるようになってほしい、と神が願っておられるとしたら、そのような犠牲を払う覚悟があるだろうか。
あなたは、手桶の一しずく以下の無視される存在となって、あなたが仕えた人々のだれもあなたのことを思い出さないことになってもいいだろうか。
あなたは、自分の資産を使い、自分自身をも使い尽くしてもよい、と思っているだろうか。
人に仕えてもらうことではなく、人に仕えることを求めているだろうか。
「聖徒」の中には、骨の折れる目立たない働きに耐えられない人がいる。
そんな雑事に携わるのは沽券に関わる、と感じているのである。
God Bless You!!
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