2022年2月29日(月)
『「わたしに何をしてほしいのですか。」するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」』ルカの福音書18章41節
あなたが困るだけでなく、あなた自身が他の人を困らせているものは何か。
それは決まって、自分ではどうにもならないものである。
「先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく……叫んだ」。
主ご自身と向き合う時が来るまでは、その困惑の中にとどまれ。
常識を最大の頼りにしてはならない。
私たちの前に立ちふさがる、どうにもならない問題に関して、「わたしに何をしてほしいのか」とイエスがお尋ねになるとき、主は常識的な方法ではなく、私たちの思いも及ばない方法をお取りになることを忘れてはならない。
私たちは過去において、何を主にしていただくかを自分で選んできた。
そうすることによって私たちはどれほど主の力を制限していることだろうか。
「私はいつもその点で失敗してきた。
だから、これからも必ず失敗するだろう」と私たちは言う。
その結果、私たちは自分が本当は望んでいることを求めず、「こんなことを神にお願いするのは非常識だ」と言うのである。
しかし、もしそれが不可能なことだとしたら、それこそは、私たちが求めるべきものなのである。
もし不可能なことでなければ、そもそもそれは、困惑するようなことではない。
神はどう見ても不可能なことをしてくださる方なのである。
この男は(不可能と思われていたのに)ついに目が見えるようになった。
しかし、あなたにとって最大の不可能事とは、主と全く一つとなって、古いいのちがその痕跡をとどめないまでになることである。
もしあなたが神にそう願うなら、神はそのようにしてくださる。
しかし、そのためには、イエスが全能であると信じていなければならない。
信仰とは、単にイエスが言われることを信じるにとどまらず、イエスご自身を信じることである。
もし、イエスのことばに目を留めているだけであれば、決して信じていることにはならない。
ところが、ひとたびイエスに出会うなら、イエスは不可能なことも、やすやすと私たちの生活に実現してくださる。
私たちが苦悩するのは、心の中にまだ我意と愚かさがあるからである。
信じようとせず、船を陸につなぎとめる綱を切って海に出ようとせず、心配を抱えるほうを選んでいるからである。
God Bless You!!
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