2022年2月21日(月)
『彼女はわたしのために、良いことをしてくれたのです。』マルコの福音書14章6節
もし人が「愛」と呼ぶものによって、自分という壁を乗り越えることができないなら、それは愛とは言えない。
もし愛というものが、常に分別に満ち、常に賢くて抜かりがなく、決して自分の領分を超えないものであるなら、それは愛などではない。
それは愛情かもしれない。
温かい感情であるかもしれない。
しかし、そこには本当の愛の性質はない。
私は今まで、神のために何かをせずにはいられなかったことがあるだろうか。
役立つとか、自分の義務だからとか、自分の得になるから、と感じたからではなく、ただ神を愛している、というだけの理由で……。
また、神にとって価値あるものを神に献げることができる、と気づいたことがあるだろうか。
それとも、神のためにできることが山ほどあるのに、ただ漫然と神の贖いの偉大さを夢想してきただけだろうか。
後世のために記録されるべき奇跡や偉大なことではなく、ごく普通で簡単な日常のことであったとしても、私がすべてを神に明け渡している証拠となることを私はしてきただろうか。
ベタニアのマリアがしたことを主が喜ばれたように、私も主に喜ばれることを何かしただろうか。
私たちが混じりけのない思いで神を愛していることを示す明け渡しをするかどうか、あたかも神が見つめておられるかのように思われる時がある。
神に自分を明け渡すことは、自分がどれだけ聖いか、ということより価値のあることである。
個人的な聖さに気を取られると、自分の聖潔にしか目が行かなくなり、神のご機嫌を損じるのではないかという恐れから、自分の歩き方、話し方、顔つきまで過度に気にするようになる。
しかし、ひとたび自分を神に明け渡すなら、全き愛が恐れを締め出してくれるのである。
「自分が神の役に立てるとは思えない」という考えを私たちは捨てるべきである。
役に立っていない、と結論づけたほうが真実に近い。
大事なことは、役に立つかどうかということではなく、神ご自身にとって価値ある存在かどうかである。
私たちが神に自分のすべてをおゆだねするなら、神が四六時中、私たちを通して働いてくださるのである。
God Bless You!!
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