2022年2月18日(金)

2022年2月18日(金)


『立ちなさい。さあ、行こう。』マタイの福音書26章46節


ゲッセマネの園で当然目を覚ましているべきであった弟子たちは眠りこけてしまった。
そしてその失態に気がつくと、彼らは絶望感に襲われた。

取り返しのつかないことをしてしまったという感覚は、私たちを絶望に追いやらずにはいない。
「ああ、もうおしまいだ。これ以上何をしても無駄だ」と私たちは言う。

このような絶望感は例外的なものだ、と考えるなら、私たちは間違っている。
人間であるなら、ごく普通に経験することだからだ。

絶好の機会を逃してしまったことに気がつけば、私たちは絶望に陥りやすいものである。
しかし、イエスはそんな私たちのところに来て、こう語りかけてくださる。

「今はもう少し眠っているがよい。
このような機会は二度とやって来ない。
取り返しはつかない。
しかし、立ち上がって、次のことに取りかかれ。」

つまり、過去は眠らせておこう。
ただし、キリストの御胸にお預けして。
そして、キリストとともに、敗北なき将来に向かって進んで行こう、というのである。

このような経験はそれぞれ、お互いの人生にあるものだ。
現実の出来事によって私たちは絶望し、その中から自分を引き上げることはできない。

この場合、弟子たちは、全く弁解の余地のないことをしてしまった。
イエスとともに目を覚ましているどころか、ぐっすりと寝込んでしまったのである。

しかし主は、弟子たちが絶望に陥らないように、霊的主導権をとり、「さあ、立って、次のことに取りかかれ」と仰せになった。

もし私たちが神からの激励を受けたなら、次にどうすればよいのだろうか。
主を完全に信頼し、自分はすでに主に贖われているという土台に立って祈ることである。

失敗を犯した、という気持ちをいつまでも持って、新たな行動まで台無しにするようなことが決してあってはならない。

God Bless You!!


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