2022年2月10日(木)

2022年2月10日(木)


『あなたがたは目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。』イザヤ書40章26節


イザヤの時代、神の民は偶像の顔を見つめていたために、心の目が機能停止寸前になっていた。

そこでイザヤは民に天を見上げさせた。
つまり、心の目を正しく用いさせようとしたのである。

聖徒にとって大自然は神聖なものである。
もし私たちが神の子であるなら、自然界に途方もない宝を所有していることになる。

吹き行く風や、日の出や日の入り、空に描かれる様々なしるし、咲き誇り、また枯れていく花々……そのどれを見ても、神が確かに私たちに語りかけておられることが分かる。

ただしそのためには私たちの、機能を失いかけている心の目を、もう一度活用しなければならない。
その際、霊的に焦点が本当に合っているか否かは、自分の心や考えを統御できているかどうかにかかっている。

あなたの心の目は、偶像の顔に焦点が合ってはいないか。
その偶像があなた自身であるということはないか。
仕事が偶像になってはいないか。

あるいは、神のしもべはこうあるべきだ、というあなたの考えはどうか。
あなたが経験した救いや聖化はどうか。

もしそのどれかが該当しているなら、神を見るあなたの心の目は機能を停止しているのだ。
そのため、困難を前にしてもなすすべなく、何も見えない状態の中で耐えるしかない。

もしあなたの心の目が機能を停止してしまっているなら、自分の過去の経験を振り返ってはいけない。
あなたに必要なのは神である。

ただちに自我を脱ぎ捨て、あなたのもろもろの偶像の顔から目を逸らし、あなたの心の目の機能を損なってきたすべてのものから離れるのだ。

目を覚ませ。

イザヤが民に投げかけた痛烈な皮肉を自分に対するものとして受けとめ、意識してあなたの心の目を神に向けよ。

祈りが無力に感じられる理由の一つは、心の目を働かせなくなったために、神の前に意識的に出て行く能力を失ってしまったことにある。

私たちはとりなしという領域において個人的に交わることより、まず自分が裂かれたパン、注がれたぶどう酒となることを習得しなければならない。

その際に、神から与えられた心の目が機能していれば、聖徒は今まで経験したことのない人間関係の中に、しっかりと身を置くことができるのである。

God Bless You!!


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