2022年2月1日(火)

2022年2月1日(火)


『キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を……宣べ伝えるためでした。」コリント人への手紙第一1章17節


パウロはここで、神の召命とは福音を宣べ伝えることである、と述べている。

しかし、パウロが「福音」ということばで意味しているものが何かを忘れてはならない。
それはとりもなおさず、私たちの主イエス・キリストにある贖いが生きた現実であることを示している。

私たちはともすれば、聖化を宣教や説教の最終目標としやすい。
しかし、パウロが個人的な聖化の経験にふれたとしても、それは説明を分かりやすくするためであって、それ自体が結論であったためしはない。

私たちが救いや聖化を説くため召された、と書かれている箇所は一か所もない。
私たちはイエス・キリストを高く挙げるために任命されたのである。

「イエス・キリストは私を聖徒とするため、贖いにおいて産みの苦しみをされた」と言うのは、本来の意図の曲解である。
イエス・キリストが贖いにおいて産みの苦しみをされたのは、全世界を贖い、完全に回復された全世界を、神の御座の前に整えるためである。

たしかに私たちが、贖いを経験することができるという事実は、贖いが生きた現実であることを物語っている。
しかし、その経験はいわば副産物であり、贖いの最終目標ではない。

もし神が人間であられたら、私たちが自分の救いや自分の聖化ばかりを求めることに対して、どれほど辟易し、うんざりされることだろう。
それなのに私たちは、朝から晩まで自分にしてほしいことや、問題の解決を求めて、神の力に大きな期待を寄せる。

しかし、生きた現実としての神の福音の根底にふれることさえできたなら、私たちが小さな個人的不満で神を煩わせることは二度となくなるのである。

パウロの人生におけるただ一つの熱情とは、神の福音を宣言することであった。
パウロは心痛や幻滅、また苦難を喜んで受け入れたが、それには一つだけ理由があった。
それにより、かえって神の福音に献身する心構えが不動にされたからである。

God Bless You!!


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