2022年12月8日(木)
『なぜなら、キリストは聖なるものとされる人を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。』ヘブル人への手紙10章14節
もし私たちが、罪を悔いたから赦されたのだと考えるとしたら、神の御子の血を踏みつけているに等しい。
神が罪を赦し、罪を忘れてくださるという計り知れない恵みは、イエス・キリストが死んでくださったから、という以外に説明はできない。
私たちの悔い改めは、キリストが成就された贖いが、自分のためであったと認識できた結果にすぎないのである。
「キリストは私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました」とあるとおり、キリストが私たちにとってこれらのすべてになられたことが分かると、神による尽きない喜びがこんこんと湧き出る。
この喜びがないところでは、霊的な死刑宣告は依然として有効なままである。
私たちがだれであろうと、またどんな者であろうと、それは問題ではない。
神の前に完全に立場が回復されるのは、他の一切の方法によらず、ただイエス・キリストの死によってであり、イエス・キリストが懇願してくださったからではなく、死んでくださったからである。
それは努力して得るものではなく、受け入れるものなのである。
私たちがどれほど懇願しようが、キリストの十字架を認めることは拒否するというのでは何の役にも立たない。
それは、イエスが開かれたのとは別の扉を激しく叩き続けるようなものである。
「そのような方法で入りたくはない。
罪人として受け入れてもらうというのはあまりにも惨めだ」と私たちは抗議する。
しかし神はペテロを通して、「この方以外には、だれによっても救いはない」とお答えになる。
一見すげなく思えるが、それは神の真情そのものであり、神の方法に従えば、入るための制限は何もないのである。
「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています」。
自分をイエス・キリストの死と一体化するということは、イエス・キリストにふさわしくない一切のものに対して、私たちが死ななければならないということでもある。
悪人を救うことが神にとって正しいのは、悪人を善人にしてくださる場合だけである。
主は、私たちがみな間違っているのに、大丈夫だと見せかけておられるのではない。
キリストの贖いとは、イエスの死によって汚れた罪人を聖くする宥めのささげ物なのである。
God Bless You!!
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