2022年12月5日(月)

2022年12月5日(月)


『私がまさっているのは王位だけだ。』創世記41章40節


私には、神のご支配のもとで、どのように自分のからだを管理してきたか、神に説明する責任がある。

パウロは「私は神の恵みを無にはしません」と言っている。
神の恵みは絶対的なもので、イエスの救いは完全無欠である。
しかも、永遠に結着がついている。

私は救われつつあるのではなく、救われている。
神の王座が永遠であるように、救いも永遠である。

であるなら私がすべきこととは、神が私の内側になしてくださったことを、外に行動として現すことである。
「自分の救いを実現させなさい」とあるのは、そうする責任は私にある、ということである。

私は主イエスのいのちを、このからだに現さなければならない。
神秘的にではなく、実際に、また堂々とである。

「私は自分のからだを打ちたたいて服従させます」とあるとおり、どの聖徒も自分のからだを完全に神のご支配の下に置くことができるのである。

神は聖霊の宮全体だけでなく、私たちの思いや願望を、私たちが自分の支配下に置くように命じられた。
私たちはそれらに対して責任があるのであり、ふさわしくない思いや願望に決して屈してはならない。

ところが、私たちのほとんどは、自分に対するよりも、他の人々に対して、はるかに厳しい目を向ける。
自分のことについては言い訳をするのに、他の人のことになると、単に私たちが自分もやってみたいと思わないという理由から、目くじらを立てるのである。

パウロは言った。
「私はあなたがたに勧めます。
あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」と。

そう決心するかどうかは、自分のからだが神の宮になる、ということに私が同意するかどうかにかかっている。
もし同意するなら、からだに関わる律法のすべては、この啓示に要約することができる。
すなわち、私のからだは「聖霊の宮」である、と。

〔*チェンバーズはファラオとヨセフの関係を、キリストとクリスチャンになぞらえている。〕

God Bless You!!


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