2022年12月30日(金)
『私の泉はみな あなたにあります。』詩篇84篇7節
神は、私たちが生来持っている、いろいろな美点を「継ぎはぎ」するようなことは決してなさらない。
人をまるごと内側から創り変えてくださるのである。
「新しい人を着よ」とあるように、私たちは新しいいのちにふさわしい衣を身につけているかどうかを確かめなければならない。
神が私たちのうちに植えてくださったいのちそのものが、新しい美点を育んでいくのである。
それは、アダムの美点ではなく、イエス・キリストの美点である。
神が聖化の過程に入られると、生来の美点や能力に対するあなたの自信を完全にしぼませてしまうことに注意しなければならない。
それは、イエスの復活のいのちという貯水池からあなたが自分のいのちを汲み出すことを学ぶまで続く。
もしあなたがこのような「日照り」の経験を通っているなら、感謝することだ。
神が私たちの生来の美点に対する自信を打ち砕かれるのは、神が私たちのうちに働いてくださっている何よりのしるしである。
その美点なるものは、私たちが将来なるべき姿を約束するものではなく、神がそもそも人間を創造されたという残滓でしかないからである。
私たちは生来の美点にしがみつこうとする。
その一方で、神は一貫して私たちをイエス・キリストのいのちにつなごうとしておられる。
そのいのちは、決して生来の美点ということでは説明のできないものである。
神の恵みによらないものを頼みとして、神に仕えようとする人々を見ることほど残念で悲しいことはない。
そのような人々が頼みとしているのは、たまたま親や先祖から受け継いだものばかりである。
神は、私たちの生来の美点を完成させて、それを変容されるのではない。
私たちの生来の美点といえども、イエス・キリストが望まれるものには遠く及ばないからである。
生来の愛、生来の忍耐、生来の純粋さなど、どれもキリストの要求されるところに決して到達はできない。
しかし、肉体にあるいのちのあらゆる部分と、神が私たちのうちに注いでくださった新しいいのちとの調和を図るならば、神は私たちの中に、主イエスの特徴であった美点の数々をはっきり現してくださるのである。
かくして、「私たちの持てる美徳のすべては、主の美徳のみ」となるのである。
God Bless You!!
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