2022年12月3日(土)

2022年12月3日(土)


『そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。』コリント人への手紙第一2章4節


福音を説く際に、福音そのものに力があるという確信の代わりに、どうしたら救われるかという知識を用いると、かえって人は救いの現実から遠ざかる。

どうしたら救われるかという知識を述べるときに、まず自分が神への信仰に根を下ろしているか、またそれが自分を支えるものになっているかどうか確認しなければならない。

聖書を明快に説き明かすことができているから大丈夫だと思ってはならない。
むしろ、その際に、あなたが聖霊に拠り頼んでいるかどうか確認することが大切である。

神の贖いの力の確かさに信頼せよ。
そうすれば、神は人々のたましいに、ご自身のいのちを再生してくださる。

ひとたびこのような霊的現実に根ざすなら、何によっても動揺しないですむ。
しかし、もしあなたの信仰が経験中心であれば、ちょっとしたことでも信仰が覆ることは十分ありうる。

しかし、神を、あるいは贖いの圧倒的な現実を覆すことのできるものは何一つない。

あなたの信仰はそれを土台にすべきである。
そうすればあなたは神と同様に永遠まで不動である。

ひとたびイエス・キリストと個人的な交わりに入ったなら、あなたが動かされることは二度とない。
これが聖化されたということの意味なのである。

「聖化は一つの経験にすぎない」という考えを私たちが捨てようとせず、「聖化」それ自体も聖められなければならないことを忘れるなら、神はそのような「聖化」の経験に不同意を表明される。

私は自分の意志で、神に仕えるために聖別された人生を献げなければならない。
それは神が私をご自身の手足として用いることができるようにするためである。

God Bless You!!


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