2022年12月28日(水)

2022年12月28日(水)


『向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。』マタイの福音書18章3節


この主のことばは、私たちの最初の回心のことを指している。
しかし、生きているかぎり、私たちは繰り返し向きを変え、神の子どもとして絶えず神に頼る者でなければならない。

神ではなく、自分の知恵に頼るなら、やがて、それがもたらす結果に対して神から責任を問われることになる。

神の摂理によって新しい状況に導かれたなら、ただちに生来のいのちが、神の御霊の命じられることに服従するようにしなければならない。

一度そうしたからといって、改めてそうする保証にはならないからである。

霊的ないのちに対する生来的ないのちのこのような関係は、連続的な回心と言えよう。
ところがこれこそ私たちが嫌うことなのである。

私たちがどのような状況に置かれようと、神の霊は少しも変わることなく、神の救いにはいささかの変更もない。

しかし、私たちは「新しい人」を着なければならないのである。
私たちが向きを変えるのを拒むたびに、神はその責任を私たちに問われる。
私たちが拒絶するのは、自分でも分かっているのに頑固でいるからである。

しかし、私たちは生来の性質にではなく、神に支配されなければならない。
私たちの霊的な成長が阻害される原因は、私たちが絶えず向きを変えようとしないことにある。

つまり凝り固まった頑固さのゆえに、神の御座に向かい、「従うのはいやです」と高慢を吐き出すのである。

私たちは独立や自分勝手を格別に尊び、それらに間違った名前をつける。
神が頑固という弱点とみなされるものを、私たちは強さと呼ぶのである。

私たちの中には、まだ神に服従していない領域がまるごと、いくつも残っている。
それらが服従するようになるための唯一の方法は、この継続的回心以外にはないのである。

しかし、そうしていくうちに、ゆっくりと、しかし確実に、全領域を神の御霊の支配のもとに置くことができるのである。

God Bless You!!


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