2022年12月26日(月)

2022年12月26日(月)


『もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、……御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。』ヨハネの手紙第一1章7節


意識において罪から自由になった気がするということを、十字架の贖いによる罪からの解放と誤解するのは、深刻な誤りである。

新生しないかぎり、罪がどういうものか分かる人は一人もいないからである。

罪こそは、イエス・キリストがカルの十字架の上で立ち向かわれたものであった。
私が罪から解放された何よりの証拠とは、自分の中にある罪の本当の性質が分かるということである。

罪の何たるかを本当に知るためには、イエス・キリストの贖いを極限まで経験しなければならない。
つまり、キリストの完全さを共有していなければならないのである。

聖霊はキリストの贖いを、私たちの意識の領域はもちろん、無意識の領域にも適用してくださる。
私たちのうちにある御霊の比類なき力が分かった時に初めて、ヨハネの手紙第一1章7節の「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」というみことばの意味が理解できるのである。

このみことばは、意識できる罪だけでなく、私のうちにおられる聖霊以外にしか気づくことのできない罪を深く理解することをも指している。

神が光の中におられるように、私も光の中を歩むなら——すなわち自分の良心という光ではなく、神の光の中を歩み、神の目から何も隠すことをしないなら、驚くべき啓示が私に臨む。

イエス・キリストの血がすべての罪から私をきよめてくださる結果、全能の神ですら、私の中に非難すべきことを一つも見出すことができないという啓示である。

もちろん意識においては、罪の痛切な記憶が伴っている。
しかし、私のうちに働く神の愛のおかげで、神の聖さにふさわしくないものは何であっても、聖霊が罪を憎まれるように憎まずにはいられなくなる。

「光の中を歩む」というのは、暗闇に属する一切のものが、実際には私を光の中心へと押しやってくれることを言うのである。

God Bless You!!


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