2022年12月23日(金)
『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。』ガラテヤ人への手紙6章14節
イエス・キリストの福音は、常に意志決定を迫る。
キリストの十字架において罪に対して下された神の裁定に同意するか、イエスの死に少しでも関心があるか、イエスの死に自分を一体化させたいと願っているか、罪や世俗、自我に対する関心のすべてに対して完全に死にたいと願っているか、と。
また、イエス以外のすべてのものを失ってもよいと思うほどに、イエスと一つになることを願っているか、と。
弟子であれば、イエスの十字架のもとで神と契約を結ぶことができる素晴らしい特権が与えられている。
それは罪に対して死んだ者となることを意味している。
イエスと二人だけになり、自分の決心はどちらかを告げよ。
罪が自分の中で完全に死ぬことまでは願っていません、あるいは、どんな代償を払ってでも、イエスの死に、自分を一体化させたいのです、と。
十字架の上で主がなされたみわざを確信し、信仰を持つとすぐに、イエスの死が自分の死と重なるという、人知を超えた同一化が起きる。
そして、すべての理解を超えた知識によって、あなたの「古い人」が「キリストとともに十字架につけられた」ことを知る。
あなたの「古い人」がキリストとともに十字架につけられた証拠は、あなたのうちにある神のいのちにより、イエス・キリストの御声に従うことが驚くほど簡単になることである。
主がおられなかったらどうなるかを、主は私たちに時折垣間見させてくださる。
それは、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」と主が言われたことの裏づけでもある。
だからこそ、主イエスに対する個人的で熱烈な献身が、キリスト信仰の基盤となっているのである。
私たちは、神の御国に初めて導かれたときの天にも上る心地こそ、神が御国に入れてくださった目的だと勘違いしてしまう。
しかし、神が私たちを御国に入れてくださった目的は、イエス・キリストと私たちが一つにされたという、素晴らしい意味に気づくことなのである。
God Bless You!!
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