2022年12月22日(木)
『わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。』ヨハネの福音書6章44節
神が私を引き寄せようとされると、私の意志がただちに問題として浮上する。
神が示された啓示に応答するつもりがあるか、神のみもとに行くつもりがあるか、と。
しかし、そもそも霊的な事柄についてあれこれ言うのは、神に対して不遜なことである。
神が語っておられるときに、自分がどう決断したらよいか、人に相談するようなことが決してあってはならない。
信じるというのは、知的な行為の結果ではなく、慎重に自分を神にゆだねた行為の結果である。
しかし私に問われているのは、神にすべてを投げ出し、神のことばに基づいて行動するかどうかである。
もしそのようにするなら、私は神の御座ほどにも確かな現実を土台とすることができたことが分かる。
福音を説くにあたっても、常に意志の問題に焦点を当てよ。
信仰とは、信じる意志と同義でなければならないからである。
説得力ある説明に白旗を挙げるのではなく、意志が明け渡されなければならないのである。
慎重に神と神が言われることに信頼して一歩前へ進み、もはや自分の行いに頼らず、神にのみ信頼を置くことである。
その際に妨げになるのは、神に信頼しようとせず、自分の理解に頼る態度である。
感情に関しては、意に介する必要が全くない。
大切なのは、信じる意志を持つことである。
それができるためには、今まで慣れ親しんできた古いものの見方ときっぱり訣別し、迷わずに神に自分を明け渡すことが絶対に必要である。
だれもが、自分の理解を超えた世界とつながることができるように造られている。
しかも私を引き寄せてくださっているのは神なのである。
そして神と私との関係は、第一に、知的なものではなく個人的なものである。
神の奇跡と、信じようとする意志さえあれば、私もその関係の中に入ることができる。
すると、私の人生に起きる素晴らしい変化を、知的にも理解し、喜ぶことができるようになるのである。
God Bless You!!
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