2022年12月2日(金)
『私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。』ピリピ人への手紙3章16節
神は私たちを、ご自身には何でもできることの完璧な見本にしたいと願っておられると想像するなら、それは罠である。
神のみこころは私たちがご自身と一つになることだからである。
ホーリネス(聖潔)運動は、神が私たちを聖潔の見本として神の博物館に並べようとしておられるかのような印象を与えがちである。
このような、個人の聖潔という考えに立つと、どれほど信仰生活が盤石に見えても、それは神ご自身のためではなく、神のわざが現れた証拠、とあなたが言いたいためにすぎない。
「私が病気になることが神のみこころであるわけがない」とあなたは言う。
しかしご自身の御子に傷を負わせることが神のみこころであったのなら、どうして神があなたに傷を負わせてはいけないのだろうか。
神を雄弁に証しするのは、あなたが聖徒にふさわしいと考える生活を送ることではなく、あなたがイエス・キリストと切っても切れない関係の中にいることであり、健やかな時も病める時も変わらずキリストにすべてをゆだねていることである。
クリスチャンとしての完全とは、人間として完全になることではない。
それは絶対にありえないことである。
クリスチャンとしての完全とは、それに全く関係がないように思える生活の中で、神との関係に一点の曇りもないことである。
イエス・キリストの召しに従うときに、まず驚くのは、自分に与えられた任務が重要なものに思えないことである。
第二に驚くのは、人々が何の問題もなく暮らしているように思えることである。
このような生き方を見ると、神は必要ではないという思いになるかもしれない。
つまり、人間の側での努力や熱心があれば、神が求めておられる基準に到達できるのでないか、と。
しかし、神から離れ、堕落した世界において、そのようなことが決してできるわけがない。
私が召されたのは、私を見る人々の中に、神への渇きが起きるような、神と隔てのない生活を送るためであり、私が称賛を受けるためではない。
自分にこだわる思いがあると、神に用いていただく妨げになる。
神は展示場の見本として私を完全にしようとしておられるのではない。
私を用いることのできるところへ導いておられるのである。
であるならば、神が望まれるままにしていただこうではないか。
God Bless You!!
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