2022年12月19日(月)
『わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。』マタイの福音書10章34節
神は厳しい御方である、とあなたが結論づけたくなるような状況に置かれている人に同情してはならない。
神は私たちが想像する以上に優しい御方である。
そして時折、相手に対して毅然とした対応をする機会が私たちに与えられるのは、神こそ優しい御方であると分かってもらうためである。
もし、神のもとに行くことなど思いも及ばない、と言う人がいたら、その人には手放したくない秘密があるからである。
「自分に罪があることは認めよう。
しかしそれを捨てることができないのは、空を飛ぶことができないのと同じだ」と言うのである。
このような人々に対して、同情的に接することは不可能である。
それどころか、その生活を奥深くまで探り、その結果、聖書の使信に対して敵対心や恨みを抱かせることになったとしても、問題の根本にまで至らなければならない。
人は神の祝福を欲しこそすれ、問題の核心に触れられるこは耐えられないのである。
もしあなたが神の導かれるままに行動するなら、神のしもべとしてあなたが伝える使信は、問題の根を断ち切るため、情け容赦のない、執拗なものとならざるを得ない。
さもなければ癒やされることもないのである。
その使信が相手の腹に落ちるようにせよ。
その適用を逃れる場所がなくなるまでやめてはならない。
まず現状に気づいてもらうところから始め、徐々に、自分のどこが欠けているかを認識することができたら、そこにイエス・キリストの軍旗を立て、必死に守ってもらうことだ。
「そんなことができるわけがない」という答えが返ってくるかもしれない。
「そうしなければならない、と言っておられるのは私ではなくイエス・キリストです」と言って釘をさすことだ。
「でも、どうやったらそんなことができるのか」と聞かれることであろう。
「あなたにはできません。しかし、聖霊がおられるなら話は別です」と答えればよいのである。
あなたが伝える使信が少しでも役立つためには、相手がその必要性を感じていなければならない。
神なしでもこの世で十分幸せに生きている、と言って憚らない人は大勢いる。
もしイエスがおられなくても私たちが本当に幸せに、また道徳的に生きられるとするなら、そもそも、なぜイエスはこの世に来られたのだろうか。
そのような「幸せ」や「平安」が表面的なものにすぎないからである。
イエス・キリストが来られたのは、ご自身との個人的な関係に基づかない、あらゆる「平安」に剣をもたらすためなのである。
God Bless You!!
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