2022年12月18日(日)

2022年12月18日(日)


『神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。』ローマ人への手紙8章28節


神が今の状況を支配しておられると信じるのは、神に忠実な心を持つ人だけである。

私たちは自分の状況を勝手に解釈し、口では神が支配しておられると言っても、そう信じてはいない。
すべての出来事の背後にいるのはあたかも人間であるかのようにみなしているのである。

あらゆる状況の中で忠実であるということは、忠誠心を向けるべき対象は唯一であり、それは私たちの主であるということである。

神は、ある一定の状況を突然破綻させるかもしれない。
その時になって初めて私たちは主に忠実ではなかった、つまり身辺の状況が主によって整えられていたことに無自覚であったことに気づくのである。

主が何をしようとしておられるのかが分からなかったために、その出来事はもはや私たちの人生で繰り返されることはない。
私たちの忠実さが試されているのはまさにそこなのである。

困難な状況にあっても神を礼拝することを学びさえすれば、神はみこころのままに、たちどころに状況を一変させてくださるであろう。

今日、イエス・キリストに忠実であり続けることほど難しいことはない。
私たちは仕事や奉仕、またそのたぐいのものであれば忠実に行おうとする。

しかし、イエス・キリストに対して忠実であれ、と言われるのは御免だというのである。
キリストに忠実であるべきことを話題にすると居心地の悪くなるクリスチャンは少なくない。

あの手この手で、私たちの主をその王位から引きずり下ろそうとしているのは、この世ではなく、むしろキリスト教宣教に関わる人々なのである。

神は人間を祝福するための機械のようにみなされ、イエス・キリストは、単なるもう一人の働き人のように扱われている。

忠実であるということの意味は、私たちが神のために働くということではなく、神が私たちを通して自由に働くことのできるようにするということである。

換言すれば、神が過酷な奉仕を命じてもそれに応え、いっさい不満をこぼさず、神に説明を求めないということである。
神はご自分の御子を用いられたのと同じうに、私たちを用いたいのである。

God Bless You!!


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