2022年12月17日(土)
『生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。』コリント人への手紙第一2章14節
神の福音は、人の心に福音の必要性を起こさずにはいない。
「それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら」とあるが、それは悪人に対してなのだろうか。
そうではない。
「それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっていて、「この世の神が、信じない者たちの思いを暗く」しているのである。
大多数の人々は、自分には十分な道徳心があると思っていて、福音の必要性を全く感じていない。
それが必要であるという感覚を生じさせてくださるのは神である。
いかなる人も、神がご自身を示されるまでは、その必要性を意識することがない。
イエスは「求めなさい。そうすれば与えられます」と言われたが、人が求めないかぎり神は与えることができない。
与えることを渋っておられるのではない。
神がキリストの贖いをもたらすために定めた順序なのである。
私たちが求めることによって、それまでは影も形もなかったものを生じさせる一連の過程に、神は着手してくださるのである。
キリストに贖われたという内なる現実があってこそ、新しいものが次々と生み出されていく。
贖いによって私たちのうちに神のいのちが創造されるのと同じように、そのいのちにふさわしいものも創造されていくのである。
必要を満たすことのできるのは、その必要を生み出したものだけである。
これこそが贖いの意味である。
すなわち、必要を生じさせ、それを満たすのが贖いなのである。
「わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます」とイエスは言われた。
私たちが自分の経験を語った結果、人が興味を持ったとしても、人は贖いの必要性を感じない。
しかし、十字架に高く挙げられたイエス・キリストを語ると、神の御霊により、人はキリストが自分に必要であることを自覚するようになる。
福音を説く背後では、神の贖いという創造的な働きが人々のたましいに起きているのである。
人が救われるのは、決して個人的な証しによるのではない。
「わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちですとあることを忘れてはならない。
God Bless You!!
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