2022年12月14日(水)

2022年12月14日(水)


『「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。……あなたがたは心を騒がせてはなりません。」ヨハネの福音書14章27節、1節


自分の生活で何か困難が生じると、私たちは神を責めたいという誘惑に駆られる。
しかし、間違っているのは神ではなく、私たちのほうである。

神を責めるのは、自分から手放そうとしない不従順が私たちにあることの証拠である。
しかしそれを手放せば、たちどころに一切が昼の光の中で見るように明らかになる。

私たちが二人の主人、すなわち自分自身と神とに兼ね仕えようとしているかぎり、疑いや戸惑いが来ることは避けられない。

私たちの姿勢は、神に完全に頼るというものでなければならない。
それが分かれば、聖徒として生きることほど楽なことはない。

困難に直面するのは、聖霊の権威を奪って、自分の思いを遂げようとする場合だからである。

神に従うときに神が下さる証印は、いつの場合も平安である。
神は測りがたいほどの深い平安を送ってくださる。

それは決して自然に生まれる平安ではない。
つまり、世が与えるようなものではなく、イエスご自身の平安である。

平安がやって来ないときは、それが来るまで待つこと、またはなぜやって来ないのかその理由を探り求めることだ。

もしあなたが一時の感情に駆られて行動したり、あるいは人に注目してもらいたいために行動したりするなら、イエスの平安は影を潜めてしまう。

神に対する素直さや信頼もそこにはない。
素直さとは人の決意から生まれるものではなく、聖霊から生まれるものだからである。
神は私たちが身勝手な決意をするたびに、素直であれ、と応答される。

従うことをやめると、疑問が次々と私の心に持ち上がる。
ところが神に従うと、私と神との間に問題が生じることは決してない。
ただ神の啓示に対して私の意識を目覚めさせ、驚嘆の思いを起こさせる手段として生じるだけである。

神と私の間に入り込む問題はどれも不従順が原因である。
しかし、神に従うときに起こる問題はどれも、その数は多いのであるが、この世ならぬ喜びを私に増し加えてくれる。

御父がすべてをご存じで気遣ってくださることが分かるだけでなく、神がどのように私の問題を解きほぐしてくださるかをじっくり見ることもできるからである。

God Bless You!!


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