2022年12月13日(火)
『いつでも祈るべきで、失望してはいけない。』ルカの福音書18章1節
贖いは理論ではなく現実であるということを信じていなければ、本気でとりなしの祈りをすることはできない。
それどころか、あなたのすることがとりなしではなく、無用な同情であり、神から離れていても安心する材料を相手に与えることになりかねない。
とりなしとは、その人を、またとりなしを妨げるような状況をそのまま神の前に携え行くこと、そしてその人や状況に対して神がどのようにされるかを見て、ついにはあなた自身が変えられることである。
とりなしとは、「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」ことであり、とりなし手がきわめて少ない原因はまさにそこにあるのである。
とりなすとは、「自分をその人の立場に置いてみること」と人々は説明する。
決してそうではない!
とりなすとは自分を神の立場に置いてみることであり、神のお心と神の視点にあずかることだからである。
とりなすにあたっては、祈っている事柄に関して、多くのことを知り過ぎないように注意しなければならない。
さもないと、あなたは押し潰されてしまうことだろう。
神が定められた以上に多くを知ると、あなたはもはや祈れなくなる。
人々の抱える問題に圧倒されてしまい、隠れた真実に到達できないのである。
私たちの役割は、あらゆることに関する神のお心を知ることができるように、神と緊密な交わりを持つことにある。
ところが、私たちはとりなしをせずに、活発に活動することによってその責任を回避している。
計画にしたがって行動はするが、とりなしをしようとしない。
とりなしの祈りとは、唯一、危険な罠の心配が一つもない働きである。
とりなすことによって、私たちと神との関係が隔てのないものになるからである。
とりなしにおいては、単なる応急処置で終わらないように注意をしなければならない。
その人のたましいが神のいのちと完全につながらなければ、意味がないからである。
神がせっかく出会わせてくださったのに、私たちが「取りこぼしてしまった」人が何人いたことか!
私たちが、贖いを根拠として祈るなら、神は、とりなしの祈り以外の方法によっては生じえないものを創り出してくださる。
God Bless You!!
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