2022年12月10日(土)

2022年12月10日(土)


『アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。』ガラテヤ人への手紙4章22節


パウロが、ガラテヤ人への手紙のこの章で扱っているのは罪の問題ではない。
扱っているのは、イシュマエルに代表される生来の性質と、イサクに代表される霊的な性質との関係である。

生来の性質は犠牲を払ってでも霊的な性質に変えられなければならない。
さもなければ、とんでもない二重生活を営むことになってしまうからである。

神はなぜ生来的なもの(イシュマエル)を献げるようにお命じになったのだろうか。
実は神がお命じになったわけではない。
許容されただけである。

神の本来のみこころは、従順によって生来の性質が霊的な性質に変わることであった。
生来的なものを犠牲にしなければならない原因は罪にあったのである。

アブラハムは、イサクを献げる前に、まずイシュマエルを献げなければならなかった。

私たちの中には、生来的なものを献げないうちに、霊的なささげ物をしようとする人がいる。
霊的なささげ物を神に献げようと思ったら、その方法は、「自分のからだを、……生きたささげ物として献げる」以外にはないのである。

聖化とは罪から解放される以上のことを指す。
聖化とは、自らの意志で自分を救ってくださった神に自分のすべてを献げること、そしてその代償がいかに高くついても、喜んでそれを支払うことである。

もし私たちが霊的なもののために生来的なものを犠牲にしないでいると、イシュマエルがイサクに対してとった態度のように生来のいのちは抵抗し、私たちのうちにある神の御子のいのち(イサク)を嘲るようになる。

その結果は、いつまでも収まることのない不安と動揺である。
これこそは、霊的性質が訓練を施されなかったお決まりの結果である。

私たちがあらぬ方向に進んでしまう原因は、自分自身が身体面で、また道徳面、そして精神面で受けるべき訓練を拒んでいるからである。

私たちはこう言って自己弁解をする。
「子どものころ、しっかりとしつけをされた経験がないからね」と。

であるなら、今、即刻自分に訓練を課すべきである。
そうしなければ、神のために生きようとしても、生涯のすべてが台無しになってしまうことであろう。

私たちがイシュマエルに代表される生来のいのちを甘やかしているかぎり、神は私たちの生来の生き方に積極的に関与されなくなってしまう。

しかし、ひとたび、イシュマエルを荒野に追い出し、断固とした決意で自分の監督下に置くなら、神はイシュマエルとともにいて助けてくださる。

そして井戸を備え、オアシスを開き、イシュマエルに対するご自身の約束を果たしてくださるのである。

God Bless You!!


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