2022年12月1日(木)

2022年12月1日(木)


『律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。』ヤコブの手紙2章10節


道徳律は、私たちの人間としての弱さを全く考慮してはくれない。
遺伝も弱さも勘定に入れない。
ただ完璧であれ、と要求するだけである。

道徳律は、私たちがどれほど高潔であろうと無力であろうと、その基準が変わることはなく、永遠に不変である。

神が定められたこの道徳律は、私たちの弱さを考慮して甘くなることはなく、私たちの欠点を見逃すこともない。
いつまでも永遠に絶対的なままである。

このことが分からないとすれば、本当に生きているとは言いがたい。
しかしひとたびこのことが分かると、人生は悲劇となる。

「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました」とパウロは言う。

これは自分のことであると気づいたとき、神の御霊によって私たちに罪の自覚が生まれる。
自分が絶望であることが分かるまで、人はキリストの十字架が茶番じみたことにしか思えないものである。

ところが、罪を自覚すると、律法による恐ろしい束縛感がやってくる。
自分は「売り渡されて罪の下にある」ため、望みが絶たれ、私という罪人は、どうあがいても神との関係を正常にはできない、それは不可能だと思うのである。

私が神との正しい関係に入る方法はたった一つしかない。
それは、イエス・キリストの死を通して、という方法である。

しかし、神に従えば神との関係が正常になるのではないか、と密かに思っているなら、それを捨てなければならない。
私たちの中でいったいだれが完璧に神に従うことができるというのだろうか。

道徳律には条件と約束があることが分かると、初めて私たちは道徳律の持つ力に気がつく。

神は決して従順を強制されない。
有無を言わせず従わせてくださったらいいのに、あるいは放っておいてくださったらいいのに、と願う時もある。

しかし、神のみこころが支配するところでは、その圧迫感が取り去られる。
私たちが自分の意志で神に従うことを選べば、神は、その全能の力をもって、宇宙の最果ての星、最後の砂粒までも動員して、私たちを助けてくださるのである。

God Bless You!!


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