2022年11月30日(水)

2022年11月30日(水)


『神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず……。』コリント人への手紙第一15章10節


自分がいかに無能な人間であるか私たちが絶えず語るのは、創造主に対する侮辱である。
自分の無能を嘆くのは、神が私たちに目もくれていない結果だと、神に言いがかりをつけるのと同じである。

人には謙遜に聞こえても、神の視点から見るとどうなのか吟味する習慣を身につけよ。
そうすれば、それらの嘆きがどれだけ神に対して礼を欠いたものであるかに気がついて、唖然とすることであろう。

「私は聖なる者とされた、と口にするべきではない。
私は聖人ではないのだから」と私たちは言う。

それを神の前で言うとしたら、どんな意味になるだろうか。

「主よ、あなたが私を救い、聖めることは不可能です。
機会にも恵まれてこなかったので、私の頭も体も欠陥だらけです。
主よ、不可能なものは不可能です」と言うのと同じである。

他の人が聞けば素晴らしく謙遜なことばのようであるが、神の前では公然たる反抗以外の何ものでもない。

ところが逆に、神の前では謙遜に思われることが、人にはその正反対に思われるかもしれない。
「ああ、自分が救われて、聖められたと分かるのはなんと感謝なことか」と言うのは、神の目には謙遜の極みと映る。

それは、自分を神にゆだねた結果、神は真実であると分かったという意味だからである。

あなたの話すことが他の人に謙遜に聞こえるかどうかについて思い悩む必要はない。
ただ、神の前にいつも謙遜でいること、そして、神に自分のすべてのすべてになっていただきさえすればよい。

本当に大切な関係とはたった一つしかない。
それはあなたと、あなたを贖われた主との個人的な関係である。

すべてを失ったとしても、それさえ維持していれば、神はあなたの人生を通してみこころを成し遂げてくださる。

一人の人生でも、神のご目的にとっては何にも代えがたく貴重なものであるかもしれない。
あなたの人生がそうでないとだれが言えようか。

God Bless You!!


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