2022年11月3日(木)

2022年11月3日(木)


『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』ガラテヤ人への手紙2章19節、20節


これらのことばが意味するのは、自らの手で自分の独立状態に終止符を打ち、主イエスの主権に服するということである。

これを代行してくれる人は一人もいない。
自分自身でするほかはないのである。

1年365日、神がこの点に気づかせてくださろうとも、私に無理強いはできない。
それが意味するのは、私という個人が、神からの独立という硬い殻を打ち破って自我から解放され、自分自身の考えを通すためではなく、イエスに対して絶対的に忠実に生きるために、神と一つになることである。

ひとたびそれが分かると、二度と思い違いをする心配はない。
「わたしのために」という、キリストへの忠誠の意味が少しでも分かっている人は稀である。

この姿勢があればこそ、聖徒は筋金入りになるのである。

神からの独立状態に終止符は打たれただろうか。
そうでないとすれば、他のすべては、敬虔を装ったまがいものにすぎない。

決断すべきことは一つしかない。
私がイエス・キリストに降伏し、どのような形や方法で自分の独立に終止符を打つか、いっさい条件をつけないことである。

自己実現には終止符が打たれなければならない。
すると、ただちに到達点に至ることができ、キリストと一体になるという、人知を超えたことが現実に起き、「私はキリストとともに十字架につけられました」という神の御霊の証しは揺るぎのないものとなる。

「神に近づきなさい。
そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」

キリスト信仰に熱情が吹き込まれるのは、自分の権利をあえて放棄し、イエス・キリストの奴隷となることによる。
それができないうちは、私は到底聖徒などではありえない。

一年に一人の学生が神の召しを受けるだけでも、神がこの学院〔*チェンバーズが創設したバイブル・トレーニング・カレッジ〕を存在させた理由としては十分であろう。

この学院は、組織としては何の価値もない。
学問的な業績もない。
この学院の存在目的は、神がここで学ぶ人々の人生に働きかける機会を提供するだけである。

私たちは神の言われるままにするつもりがあるのだろうか。
それとも、自分の将来を自分で決めることに関心があるのだろうか。

God Bless You!!


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