2022年11月28日(月)

2022年11月28日(月)


『神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。』ローマ人への手紙3章24節


神の恵みの福音は、人のたましいに渇望を起こすだけでなく、それと同じぐらいの腹立たしさを呼び起こす。
福音がもたらす啓示は、やすやすと受け入れることができないものだからである。

自分から与えるだけでよいなら、そこに一定の誇りも生まれるが、自分から頭を下げて受けるとなると話は別である。

殉教に甘んじてもよい。
神への奉仕のために人生を献げてもよい。
何でもしようではないか。

しかし地獄に行くのがふさわしい罪人と同等に扱われ、イエス・キリストを通して救いという賜物を受け取るだけでいい、と言われるのは屈辱だ、と私たちは言うのである。

しかし、神から何かを褒美として勝ち取ることはできないことに、私たちは気づかなければならない。
贈り物として受け取るか、さもなければ何も受けずに去るかのどちらかしかないのである。

私たちが最大の霊的祝福を受けるのは、自分は何も持たない貧しい者であるということが分かる時である。
そこに至るまでは、私たちの主は「無力」である。

自分自身で事足りているかぎり、主が私たちのためにできることは何一つない。
私たちには、自分には何もないという困窮の門を通って神の国に入る以外に方法はないのである。

私たちが「富んでいる」かぎり、つまり高慢さや、神に頼ろうとしない独立心があるかぎり、神が私たちのためにできることは何一つない。

私たちが聖霊を受けるのは、霊的飢餓を覚えた時だけなのである。
そのとき、神のご性質が聖霊によって私たちの中で有効に作用し始める。

聖霊は、イエスのいのちを私たちに授けて私たちを生き返らせ、「永遠」をもたらす。
するとたちまち、私たちは天上の世界、すなわち、イエスが生き、治めておられる御国に引き上げられるのである。

God Bless You!!


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