2022年11月26日(土)

2022年11月26日(土)


『私たちの主イエス・キリストの十字架以外に……。』ガラテヤ人への手紙6章14節


死すべき体を持つ私たちが神の力、言い換えれば、イエスの復活のいのちを知りたいなら、カルバリの十字架における神の悲劇についてじっくり考える時を持たなければならない。

自分の霊的症状をあれこれ詮索するのをきっぱりとやめ、霊を全開にして、神の悲劇に思いを向けよ。
すると、またたく間に神の力があなたの中に入る。

「わたしを仰ぎ見よ」とあるように、目を留める源泉が間違っていないなら、その人自身に力が備わる。
しかし正しい対象に焦点が合っていなければ、衰退あるのみで ある。

キリストの十字架の結果、救い、聖化、癒しなどがもたらされた。
しかしそのどれも、私たちが説くべきものではない。

私たちが説くべきは、「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト」なのである。
イエスを明白に示しさえすれば、結果は自然に伴う。

福音を説くときには、神が最も重要視しておられることに神経を集中することだ。
そうすれば、聴衆が無関心のように見えても、変化が起こらないではいない。

私が自分の好きなことを語っても、あなたにとってさしたる意味はない。
あなたの話も私にとって同様である。

ところが、もし私たちが神の真理を語るなら、私たちは繰り返しその真理に 出会うことができるのである。

私たちは、脇見することをやめて、霊的な力の偉大な源であるキリストの十字架に焦点を合わせなければならない。

それは、すべての力が秘められたその中心から離れないためである。
そうするなら力が解き放たれる。

ホーリネス運動や、霊的な体験を証しする集会では、ともすると焦点がキリストの十字架そのものにではなく、十字架がもたらす結果に置かれてしまっている。

今日、教会 の弱体化が批判の対象となっているが、その批判は正当なものである。
弱体化した理由の一つは、霊的な力の真の源泉が注目されてこなかったことにある。

つまり、私たちはカルバリの十字架の悲劇にも、また贖いの意味についても、十分に思いを巡らしてこなかったのである。

God Bless You!!


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