2022年11月22日(火)

2022年11月22日(火)


『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。』コリント人への手紙第一10章31節


日々の暮らしの表面的なことに心を用いるのは神のみこころではない、という考えは決して容認してはならないものである。
表面的であろうが、深遠なことであろうが、神が定められたという点で変わりはないのである。

神への献身を優先するためにではなく、自分が深遠な人間であると周囲の人々に印象づけたいために表面的なことを拒絶するのだとすれば、あなたが霊的にうぬぼれている何よりのしるしである。

注意をしていないと、他の人々を見下すこのような思いが私たちの中に芽生えてくる。
そして、他の人を叱責しないではいられない気持ちになる。
自分より表面的な人物に思えて仕方がないからである。

いかにも自分のほうが人間として深みがあるかのようにふるまってはならない。
神である御方ですら赤子となられたではないか。

表面的であることは悪いことではないし、それによってあなたの人生に深みがなくなるわけではない。

大海にも浜辺がある。
食べること、飲むこと、歩くこと、話すことなど、人生を快適にしてくれるものは表面的とはいえ、みな神が定められたものである。

私たちの主は神の御子としてその中で人生を過ごされた。
その主が「弟子は師以上の者ではない」と言っておられるのである。

私たちは、実はこうした表面的な事柄によって守られている。
私たちは、常識に従い、表面的な生き方をせざるを得ない。

そこに深遠なことが起きると、表面的な出来事との差がおのずと現れる。
その奥深さは神以外のだれにも話す必要がない。

私たちは、自分がどのように人から評価されるかを気にするあまり、表面的な日常生活においてクリスチャンにふさわしい行動を取ろうとしない。

神以外のだれの言うことも真剣に受けとめなくてもよい、と心に決めよ。
そうすると、最もたちの悪い欺瞞者として最初にやり玉に挙げるべきは自分自身であることに気がつくことだろう。

God Bless You!!


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