2022年11月20日(日)

2022年11月20日(日)


『このキリストにあって、私たちは罪の赦しを受けています。』エペソ人への手紙1章7節


神は私たちの慈父である、という心地よい見方、つまり「神は優しく、愛に富んでおられるから、私たちを赦してくださるのは当然である」という見方には警戒が必要である。

このような心情は新約聖書のどこにも記されていない。
神が私たちを赦してくださるのは、キリストの十字架という恐るべき悲劇があったからこそである。

赦しの根拠をそれ以外のものに求めるのは、無意識の冒瀆である。
神が私たちの罪を赦し、ご自身の恩寵によって私たちを回復するのは、キリストの十字架を通して初めてできることであり、それ以外の方法はどこにもない。

赦しは、受け入れる私たちにとって何の苦労も要らないが、その代償はカルバリの十字架上の苦悶だったのである。

罪の赦し、聖霊という賜物、そして単純な信仰による聖めにあずかりながら、それらすべてが私たちのものとなるために、神が支払われた計り知れない代償を忘れてしまう、ということはありえないことではない。

赦しとは神の恵みの奇跡である。
罪を赦してもなお神が聖であられるためには、イエス・キリストの十字架という代償を払わなければならなかったのである。

神は慈父であると言いながら、贖いを不要とする見方を決して受け入れてはならない。
神の啓示によれば、贖いがなければ神には罪を赦すことができない。
もし赦したなら、ご自身の性質に反することをされたことになる。

私たちが赦されるためには、十字架の贖いによって神のもとに連れ戻していただく方法があるのみである。
神の赦しは、このような超自然的な領域においてのみ、自然なのである。

罪の赦しという奇跡と比べるなら、聖めの経験もかすんでしまう。
聖めとは一人の人生になされた赦しの素晴らしい現れにすぎない。

しかし、汲めども尽きない感謝の思いを人間に起こさせるのは、神が人間の罪を赦してくださったという事実である。

パウロはこの事実から目を逸らさなかった。
神があなたを赦すために、いったいどれほどの代償を払われたか得心できれば、万力で挟まれたように、あなたは神の愛で身動きができなくなるはずである。

God Bless You!!


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