2022年11月19日(土)

2022年11月19日(土)


『その方が来ると、罪について……世の誤りを明らかになさいます。』ヨハネの福音書16章8節


罪を認めるとはどういうことか、少しでも分かっている人はごく稀である。

間違いを犯して不安に駆られた経験はだれにでもある。
しかし、聖霊による認罪を経験すると、地上におけるあらゆる人間関係は消え去り、「私はあなたにただあなたの前に罪ある者です」というただ一つの関係が残る。

このような認罪の経験をすると、良心のあらゆる角度から咎めを受け、神は決して自分を赦されないだろうと直感する。

もし神が仮にも自分を赦してくださるなら、自分の正義感のほうが神よりまさっていることになる、と考えるからである。
しかし、神は確かに赦してくださる。

ただし、そうするためには、キリストの死という、神のお心が引き裂かれるほどの代償が必要であった。
神が罪を赦してくださるというのは、神の恵みによる偉大な奇跡である。

そして、イエス・キリストが死んでくださったというたった一つの事実により、神が罪を赦してくださっても神のご本性に矛盾が起きないのである。

「神は愛だから、私たちを赦してくださるのは当然である」というのは、浅薄なたわごとにすぎない。
認罪の念に打たれたら、そんなことばは二度と口にすることができない。

神の愛とはカルバリの十字架のことであり、それ以下のものではないのだ。
神の愛は、キリストの十字架の上にのみ、はっきり記されている。

神が私を赦してくださることができる理由は、主の十字架以外にはない。
十字架において神の道徳的規準は満たされたのである。

赦しというのは、単に私が地獄行きを免れて、天国に行く備えができたという意味ではない。
このような程度の赦免を受けたいと望む人はだれもいないであろう。

赦しとは、キリストにあって神と一つになるという、新しい関係に私が入れられたことを意味する。
贖いという奇跡は、汚れた私を、神が聖なるご自身の基準にかなうものにしてくださることをいう。

それは私が新しい性質、すなわちイエス・キリストのご性質の中に入れられたことによって可能になったものである。

God Bless You!!


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