2022年11月16日(水)

2022年11月16日(水)


『何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。』コリント人への手紙第一10章31節


神が肉体をとって人となられた、という驚嘆すべき出来事は、いつしか、普通の子どもの日常へと変わっていった。
山上での変貌という驚嘆すべき出来事は、悪霊が支配するふもとの低地で跡形もなく消えた。
イエスの復活の栄光は、やがてガリラヤ湖の岸辺での朝食にその影をとどめるのみとなった。

しかし、これらは期待外れの結果ではなく、神の偉大な啓示なのである。

私たちは、とかく自分が世にも稀な経験をすることを求めやすい。
勇敢ということは、自分が英雄になることだと勘違いする。

しかし、見事に危機を乗り越えていくことと、だれも見ていないところで脚光を浴びることなく、だれからもいっさい気に留められず、神に栄光を帰しながら毎日の務めを果たすことは、全く別のものである。

私たちは中世の聖人の頭に輝く光輪を望まないにしても、「祈りの人とは彼のような人のことだ」とか「敬虔な女性とは彼女のような人のことだ」と人々に言ってもらえることを期待している。

しかし、主イエスに対する献身の姿勢が正しければ、あなたはすでにだれにも気づかれることのない、素晴らしい高みにまで到達しているのだ。

そこでは、ただ、あなたから常に流れ出る神の力以外に注目されるものはない。

「私には神からいただいた素晴らしい召しがある」と私たちは言う。
しかし、どんなにつまらなく思える義務であっても、それを神の栄光のために果たすには、私たちのうちに受肉された全能の神が必要である。

また私たち自身が人からの注目を少しも受けないほどに、人間として完全に神のものとなるためには、内に住まわれる御霊が必要である。

聖徒の人生の価値を試すのは、成功を収めたかどうかではなく、人として忠実な歩みをしたかどうかである。

私たちはクリスチャンとしての奉仕で成功を収めることを目標に掲げる。
しかし、真の目標は人生で神の栄光を現すことであり、日常的に起こる様々な状況の中で「キリストとともに神のうちに隠されている」いのちによって生きることにある。

私たちの人間関係とは、その理想的な神のいのちを人に示す実際の機会にすぎない。

God Bless You!!


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