2022年11月14日(月)

2022年11月14日(月)


『主は道中、この私を導いてくださいました。』創世記24章27節


私たちは神といよいよ一つとなって、絶え間なく導きを求めなくてもすむようにならなければならない。

聖化とは、私たちが神の子どもとされるという意味である。
子どもは最初のうち、親に従うのが自然であるが、やがて反抗心の芽生える時が来る。
すると、たちまち摩擦が起きる。

霊的な領域においてこのような摩擦が起きることは、神の御霊からの警告である。
御霊が制止された場合は、ただちに歩みを止め、心を新たにしていただき、神のみこころを見分けなければならない。

私たちが神の御霊によって新しく生まれたのなら、神に向かって、あそこへ、またはここへ導いてください、と願うのは不敬虔の極みである。

「主は、この私を導いてくださいました」とあるように、過去を振り返ったときに、驚くべき神のご計画が背後にあったことが分かるのである。

そのとき、私たちが神から生まれた者であるなら、神のおかげであることを認めないわけにはいかない。

普段ありえないことが起これば、私たちのだれもが神を認める。
しかし、どんなに些細なことの中にも神を認めるためには、普段から霊的な訓練によって養われていなければならない。

たまたま起きたことは、神が定めておられたことではない、という考えを容認してはならない。
むしろ、どこにおいても、神の摂理を発見しようという心構えが必要である。

神への献身を疎かにしてまで、自分の確信の一貫性にこだわってはならない。
「私はそんなことは絶対にしない」とあなたが言うことこそ、あなたが聖徒なら、しないわけにはいかないことが確実だからである。

いまだかつて、私たちの主ほど一貫性にこだわらない方はいなかった。
しかし、御父に対する姿勢は常に一貫していた。

つまり聖徒が一貫していなければならないのは、何かの主義主張に対してではなく、神からいただいたいのちに対してだけなのである。

そしてこのいのちがあればこそ、神の御思いを次々と発見していくことができるのである。

神に忠実な信仰者となるより、狂信的になるほうがどれほど楽なことか。
神に忠実であろうとすれば、私たちの霊的な思い上がりがくじかれ、愕然とする経験を通らずにはすまないからである。

God Bless You!!


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