2022年11月13日(日)

2022年11月13日(日)


『私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子。』ガラテヤ人への手紙2章20節


私たちは、自分の気分がどうであろうと、それに捕らわれることなく突き進み、主イエスに対する完全な献身に至らなければならない。
小さなことにこだわる経験から抜け出して、何もかも主にお任せするためである。

イエス・キリストとはどういう御方であると新約聖書は記しているか考えてみよ。
その次に、「私はあのようなことも、このようなこともまだ経験していない」と言う私たちの、嘆かわしくも貧弱な信仰を考えてみよ。

そして、イエス・キリストに信頼を置くならどのような特権を主張できるのか、考えてみるのだ。

イエスは私たちを、非の打ちどころのない者、ことばに表せないほど清い者、完全に正しくされた者、そしてすっかり義とされた者として、神の御前に立たせることができる御方なのである。

イエスを信じて疑わない信仰、イエスをこよなく愛する信仰に立て。
イエスこそ「私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられた」御方である。

この神の御子に私たちが「犠牲を払う」と言うのはなんとおこがましいことであろう。
私たちは地獄と滅びから救われたというのに、今度は、主のために払う犠牲をどうしようかと考える始末である。

私たちはイエス・キリストに絶え間なく信仰の焦点を合わせていかなければならない。

祈禱会のイエス・キリストではなく、本にまとめられたイエス・キリストでもなく、新約聖書のイエス・キリスト、すなわち受肉された神、私たちを足もとに倒れ込んで死んだ者のようにすることもできる御方である。

私たちの信仰は、救いという経験の源泉である御方に置かれなければならない。

イエス・キリストが望んでおられるのは、私たちが何もかもご自身にお任せするという献身である。
私たちは決してイエス・キリストを経験でとらえることはできないし、私たちの心という小さな範囲に押し込むこともできない。

私たちの信仰は、イエス・キリストに対する、強固で揺るがない信頼の上に築かれなければならない。

聖霊が苛立ちを表されるのは、私たちの不信仰が原因である。
私たちの恐れはすべて悪しきものである。
私たちが恐れる理由は、信仰によって養われようという思いがないからである。

イエス・キリストと一つにされた人が、どうして疑いや恐れで苦しむことがありうるだろうか。
むしろ、私たちの人生は、完全で、抑えがたい、勝利に満ちあふれた、賛歌そのものであって当然なのである。

God Bless You!!


a:15 t:1 y:0