2022年11月1日(火)

2022年11月1日(火)


『あなたがたは知らないのですか。……あなたがたはもはや自分自身のものではありません。』コリント人への手紙第一6章19節


イエス・キリストの苦難にあずかるように召された人にとっては、「世界の中の世界」〔*テニスンの詩の一節〕、つまり私生活というものは存在しない。

神は聖徒の私生活を二分して、一方はだれでも通れる公道とし、もう一方をご自身の私道とされるのである。
イエス・キリストと一体になっていなければ、こんなことに耐えられる人は一人もいない。

私たちは自分自身の益のために聖化されたわけではない。
福音にあずかるように召されたのである。

その結果、私たちには関係のないように思えることが身に降りかかる。
しかし、神はそのようにして私たちをご自身との交わりの中へと導こうとしておられるのである。

神のやり方にお任せせよ。

そうしなければ、あなたはこの世における神の贖いのみわざに少しも役立たないどころか、かえってつまずきとなり、邪魔者になるだけである。

神はまず、私たちが贖いという揺るがない現実を自分の拠りどころとするように働かれる。
それはやがて、個人としてどうなろうと、私たちがもはや気にすることなく、贖いという目的を神がご自身の方法で達成されるためである。

私たちがどうして胸の張り裂けるような思いをしなくていいわけがあろうか。
そのような扉を通ってこそ、御子との交わりへの道が開けるのである。

私たちのほとんどだれもが、この痛みを一回経験するだけで倒れ、へたり込んでしまう。
神のみこころを実行する前に座り込んでしまい、自己憐憫の思いで気を失う。

そこに、いわゆるクリスチャン的な同情が寄せられると、私たちは「臨終の床」へ運ばれていくわけである。

しかし、神はそのような事態を許されない。
神は釘で刺し貫かれた御子の手で私たちをつかんでこう言われる。

「わたしとの交わりに入れ。
朝が来た。
起きよ」と。

もしだれかが胸の張り裂けるような経験をすることによって、神のみこころがなるのであれば、神があなたにそのような経験をさせたことに感謝するべきではないだろうか。

God Bless You!!


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