2022年10月28日(金)

2022年10月28日(金)


『敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。』ローマ人への手紙5章10節


私は信じることによって救われるのではない。
信じることによって救われる、と気づいただけである。

悔い改めによって私が救われるわけではない。
悔い改めとは、神がキリスト・イエスを通して何をなしてくださったか、私が気づいたことのしるしにすぎない。

原因を忘れて結果を強調する危険がここにある。
私の従順と献身のおかげで、私と神との関係が正しくされたのか。
決してそうではない。
私と神との関係が正しくされたのは、すべてに先立ってキリストが死んでくださったからである。

私が神に立ち返り、神の啓示を信仰によって受け入れたとき、イエス・キリストの途方もない贖いが堰を切ったように私に流れ込み、私は神との正しい関係に入れられたのである。

そして人知を超えた神の恵みの奇跡の結果、私は義とされて御前に立つ。
それは私が自分の罪を悲しんだからではなく、また私が悔い改めたからでもなく、ひとえにイエスがなしてくださったことのおかげである。

神の御霊は闇を打ち破る輝かしい光で義認をもたらし、それがどのように成し遂げられたのか私にはわからなくても、私は自分が救われたことを知るのである。

神による救いは、人間の論理ではなく、イエスの犠牲の死に基づいている。
私たちが新生できるのは、ひとえに私たちの主の贖いによる。

男女のいかんを問わず、罪深い人間が新しい被造物に変えていただけるのは、人間の側の悔い改めでもなく、信仰でもない。
ただ、私たちのあらゆる経験に先立つ、キリスト・イエスにある奇しい神のわざによるのである。

義認や聖化によって不動の安全をもたらしてくれるのは神ご自身なのである。
私たちが自分の力で義認や聖化を成し遂げなくてよいのだ。
キリストの十字架の贖いによってそれらが成し遂げられたからである。

このようにして超自然的な出来事が自然な出来事になるのは神の奇跡としか言いようがない。
イエス・キリストが「完了した」と言われたことの意味が自覚できるのは、この時である。

God Bless You!!


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