2022年10月26日(水)

2022年10月26日(水)


『……父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。』ヨハネの福音書20章21節


宣教者とは、イエス・キリストが神に遣わされたように、イエスに遣わされた者のことである。
何よりも重要なのは、それが人々の必要ではなく、イエスのご命令に発しているという点である。

神に仕えるうえで、私たちを勇気づけてくれるものは、目の前にではなく背後にある。

今日では、ひらめきや思いつきを優先し、それらを目の前に置いて、私たちが言う「成功」の定義に当てはめようとする傾向がある。

しかし、新約聖書によれば、私たちを奮い立たせるのは、私たちの背後におられる主イエスご自身である。
主に真実であること、そして、主の大きなご計画を最後まで実行することが到達すべき目標なのである。

主イエスご自身への献身と、主と同じ目で物事を見るかどうかが、一人ひとりに問われている。

宣教の働きには恐るべき危険が潜んでいる。
人々の必要が優先されるあまり、神からの召しが影を潜め、ついには、イエスに遣わされたという事実さえも、人間的な同情によってかき消される、という危険である。

必要はあまりにも大きく、状況は限りなく複雑で、どれほど知恵を絞っても、よろめき倒れてしまう。

私たちは、あらゆる宣教の働きの背後にあるたった一つの大きな理由が、人々の生活を高めることでも、教育を施すことでもなく、また不足を補うことでもなく、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」というイエス・キリストのご命令にあることを忘れているのである。

神が用いられた人々の生涯を振り返ると、「なんと聡明な人々であったことか。
神のみこころも、ここまで完全に理解していたとは驚くばかりだ」と言ってしまいやすい。

しかし、その聡明さの背後にあったのは、人間の知恵などではなく、神の知恵であったのだ。

私たちは人間の知恵を称賛する。
しかし本当に称賛すべきは、たとえ人から愚かだと言われようとも、神の知恵に信頼する子どものように素直な人々によって示される神の導きなのである。

God Bless You!!


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