2022年10月20日(木)

2022年10月20日(木)


『神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。』テサロニケ人への手紙第一4章3節


神には私を聖化しようとのおつもりがあるのだろうか、ということが問題なのではない。
それが私の意志であるかどうかが問題なのだ。

十字架の贖いによって可能になったことのすべてを、神が私にしてくださることに、私は異議はないだろうか。
イエスが私の聖めとなり、イエスのいのちが私の死ぬべきからだに現れることを私は願っているか。

「いつか聖化されたらどんなにいいことか」と言ってはならない。
あなたは待ち望んでいないではないか。
待ち望むことはやめ、行動に移すのだ。

「私がみもとに持っていけるものは何もない」

あなたの聖めとなってくださるイエス・キリストを、全幅の信頼をもって受け入れよ。
すると、十字架の贖いという驚くべき奇跡があなたにとって現実となる。

イエスが可能にされたものはすべて、神からの愛の贈り物として価なしに私のものとなるからである。
それはキリストが十字架の上で成し遂げたみわざのおかげである。

救いと聖めにあずかったたましいには、深い慎ましさと聖潔が生じる。
もちろん誇り高き聖潔というものはありえない。

それは苦悶の悔い改めと、名状しがたい恥と堕落の自覚を経た後の聖潔である。
そして、私が神のことを意にも介さなかったときに示された神の愛に、驚きをもって気づいたことによる聖潔である。

神は私の救いと聖めに必要なことをすべて完了された。
パウロが「何ものも私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と言ったのも不思議はない。

聖化の結果、私はイエス・キリストと一つになり、キリストにあって神と一つになる。
これはキリストの比類なき贖いがあればこそ、成し遂げられたことである。

結果を原因と決して混同してはならない。
私にもたらされた結果とは、服従、奉仕、そして祈りである。

それらはみな奇跡の聖めに発した、ことばに尽くせない感謝と礼拝という結果である。
それを私にもたらしたのは、キリストの十字架による贖い以外の何ものでもない。

God Bless You!!


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