2022年10月2日(日)

2022年10月2日(日)


『しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。』マルコの福音書9章22節


高揚感を経験した後にはいつも、あっという間に現実の生活に引き降ろされる経験が待っている。
そこは美しいものも、詩的なものも、胸躍らせるものも、何もない。

山がどれほど高かったかは、低地であくせく働くその毎日と比べれば、容易に推察できる。
しかしこの低地こそ、私たちが神の栄光のために生きるべき場所なのである。

山頂において私たちは神の栄光を見る。
しかし、山頂では神の栄光のために生きることができないのである。

自分の無力を思い知らされてこそ、私たちは神にとっての自分の真価が分かり、そこにおいてこそ、神への忠実さが明らかにされるのである。

私たちのほとんどは、懸命に頑張りさえすれば、生来の利己心のゆえに物事をこなしていくことができる。
しかし神が私たちに望んでおられるのは、地味に淡々と生き、主との個人的な関係にしたがって、低地で暮らすことなのである。

ペテロは、山頂に残るのは自分たちにとって素晴らしいことだと考えた。
しかしイエス・キリストは弟子たちを連れて低地に下って行かれた。
この低地こそ、山頂で目撃した光景の意味が解き明かされる場所なのである。

「おできになるなら……。」

自分から懐疑の思いを根絶するためには、自分の無力さを思い知らされる低地の経験を通らなければならない。
自分自身の経験を振り返ってみるとよい。
イエスという御方を知るまでのあなたは、イエスの御力を信じない、雄弁な懐疑論者ではなかったか。

山頂にいたときのあなたは何でも信じることができた。
しかし、低地での現実を突きつけられたときのあなたはどうか。

聖化の恵みにあずかった証しはできるかもしれない。
しかし、今、あなたが無力なのはどうしてか。

神とともに山頂にいたとき、あなたは天と地にあるすべての権威がイエスのものであることを目の当たりにした。
しかし、今あなたは、無力さを思い知らされる低地にいるからといって、そのことにすら懐疑的になっているのだろうか。

God Bless You!!


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