2022年10月1日(土)
『イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」マルコの福音書9章2節
私たちはみな、高い山に登った経験がある。
神の視点から世界を見、そこにいつまでもいたいと思う。
けれども、そこにとどまることを神は決して許したまわない。
私たちの霊的生活を判定するのは、下山する力があるかどうかである。
もし登って行く力しかないのであれば、問題である。
神とともに山頂にいるというのは素晴らしいことである。
しかし、人がそこに到達するのは、その後、山を下り、悪霊に取りつかれた人々の中に入って、彼らを引き上げるためなのである。
私たちはもともと、山々や日の出のような美しい風景を楽しむためだけに造られているわけではない。
私たちは低地、日常のありふれた事柄にかなうように造られている。
そして、そこでこそ私たちの真価が問われるのだ。
山上の経験を何度も味わいたいというのは、霊的な自己中心から出てくる思いである。
山頂にとどまることさえできれば、御使いのように語り、御使いのような生き方ができるに違いない、と私たちは感じる。
しかし、そのような高揚感は例外的なものであり、神とともに生きるうえでそれなりの意味はあるものの、霊的な自己中心からそれだけを欲することには警戒をしなければならない。
私たちは、起こる出来事のすべてが有益な教えになると考えがちである。
しかし本当はそれにまさるもの、すなわち神にふさわしい人格に変えられなければならないのだ。
山頂の経験は、私たちを教えるためのものではなく、私たちを造り変えるためのものなのである。
「そうだとすれば、そんな経験が何の役に立つのか」という疑問には大きな落とし穴が待っている。
霊的な事柄は、そのような考えでは決して評価できない。
山頂に立つ瞬間はめったにやって来ない。
しかし、神には何かのご目的があってのことなのである。
God Bless You!!
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