2022年1月8日(土)

2022年1月8日(土)


『アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。』創世記22章9節


この出来事は、神は結局のところ私たちに犠牲の死を求めておられる、という私たちのとんでもない間違いを描いたものである。
神が私たちに求めておられるのは、死を経験するという犠牲である。

それがあってこそ、私たちはイエスのように、自分のいのちを献げることができるのである。

「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」ということではなく、「あなたの死は、すなわち私の死であることを認めます。
それは私のいのちを神に献げるためです」ということが求められているのである。

どうも私たちは、神が何もかもあきらめよと言っておられる、と思い込んでいるようである。
しかし神はその間違いからアブラハムを清めてくださった。
それと同じ訓練を私たちも通っていかなければならない。

何もかも手放すこと自体を目的としてすべてを手放せ、と神は聖書のどこを見ても私たちに命じてはおられない。
しかし、持つ価値のあるただ一つのもの、すなわち神とともにある生き方を手に入れるためには、何もかも手放してみよ、と命じられる。

それは、私たちの生き方を引き止めている束縛を解くかどうかの問題である。
そしてその束縛は、イエスの死を自分の死と一体化させたときに、たちまち解けるものである。
その後でようやく、私たちは神との関係に入り、自分の生涯を神にお献げできるのである。

死ぬことを目的として自分のいのちを献げたところで、神にとっては何の価値もない。
神は、あなたが「生きたささげ物」であることを願っておられるからである。

それは、イエスを通して救われ、聖められたあなたの一切の力、また能力を神に使っていただくためである。
これこそが神に受け入れられるささげ物である。

God Bless You!!


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