2022年1月7日(金)

2022年1月7日(金)


『イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。」』ヨハネの福音書14章9節


イエスがこう語られたのは、叱責するためではなく、ましてや驚かすためでもなかった。
ピリポを励ましておられたのである。

私たちは他の人とは親しくなっても、イエスとは最後の最後まで親しくなろうとしない。

五旬節(ペンテコステ)以前、弟子たちは、悪霊を追い出し霊的覚醒を起こす力を自分たちに与えてくださったのはイエスであると知っていた。
それも素晴らしい親密な時ではあったが、今やそれにまさる親しい交わりの時が来ようとしていた。

イエスは「わたしはあなたがたを友と呼びました」と言ってくださったのである。

真の友情を地上で見出すことは稀である。
それは考え、心情、霊において他の人と一つとなることだからである。

私たちが受ける人生の訓練は、全体として、イエス・キリストと、このように最も親密な関係に入ることを可能にしてくれるのである。

私たちはイエスの祝福を受け、イエスのみことばも知っている。
しかし、本当の意味でイエスを知っているだろうか。

「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです」とイエスは言われた。
イエスが去って行かれたのは、弟子たちがさらに前進するためであった。
弟子である者が、ご自身と一歩でも近しく歩もうとして時間をとることは、イエスにとって喜びなのである。

信仰の実が結ばれるのは、どんな場合でも、イエス・キリストと親しく結び合わされていることの現れとして記されている。

ひとたびイエスと親密な関係になったなら、私たちは決して寂しいと感じることはなく、また人からの同情も不要となる。
絶え間なく自分の心をイエスに注ぎ出しても、それで自分が哀れであると人に感じさせることはない。

イエスとの真の親しさの中にある聖徒は、決して自分自身の印象を後に残そうとはしない。
むしろ、イエスが自分の中で自由に生きておられる、という印象を残すだけである。

そのようになれたのは、自分の生活の最も深いところまでイエスによって満たされたからである。
このような生き方は、主がご自身と親しい人に与える、強くも静かな落ち着きという印象をあとに残すのみである。

God Bless You!!


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